あなた自身のアフリカを見つけよう:アフリカという大樹

(2011/1)

講師紹介:坂田泉
建築家、画家
1994年4月より翌年3月まで、ケニアのジョモ・ケニヤッタ農工大学で建築理論と設計を指導
画文集「ムチョラジ(絵描きさん)」、絵本挿絵「幸せの器」等を出版

 今日は即興演奏のピアニストの気持ちで来ました。皆様とは交流がありましたし大体知った顔ですので安心です。僕は特別な人間でも何でもなかったわけですが、あることをきっかけに今の自分の心の中にアフリカという名前の巨大な樹木が育ちました。幹はアフリカで、それがぐっと伸びて茂っていろんな実をつけて揺れている感じなのです。この講演のお話があった時、とりあえずお答えしたテーマが「あなた自身のアフリカを見つけよう」というものでした。そこで今日は自分の中にある巨大な樹木であるアフリカがどういう風にして出来たかを振り返ってみようと思います。

 アフリカという木の幹にはキーワードがあります。たとえばアフリカを見つけようという言ったとき私は「find out」「realize」をイメージします。この言葉は日本語にはなく、西谷啓治さんという宗教家が唯一表現したのが「治行合一」という言葉なのです。知るということと行うということが一緒だということです。この言葉を使っているのは古い時代の宗教哲学者です。西谷啓治さんの「宗教とは何か」という本のまえがきに書かれていますが、単なる知識としてではなく何か行いを伴ってこの本を読んでほしいと思われたのです。彼自身も座禅、修業などの行動を伴って宗教哲学を語っています。

 もう一つは「却下照顧」という言葉ですが、京都のお寺などにも書かれていて宗教家はよく使います。ユングの思想に近いと言われましたが、これはユニヴァーサルな普遍的なものに至るには自分自身を知ることでしかないということです。座禅を組むことなどで自分の底の部分へ行くしかない辛い旅なのです。これはやはり一つの才能で自分の心の底まで潜っていける人がいて、そういう人だけがユニヴァーサル、普遍的なものに到達できるのです。これは簡単なことではなく表面に見えないものですから安易にユニヴァーサルデザインなどという言葉を使ってほしくないと思います。表面的には特に変わったところはありませんが一部のデザイナーはユニヴァーサルなオリジナリティーを持っています。たとえばパブロ・ピカソの少年のころの作品を見るとそのスキルの高さには脱帽せざるを得ません。しかしジャコメッティー、セザンヌの晩年の作品からは心の底から湧き出るユニヴァーサルなものが有り、後に続く人を誘っているのです。

 リアライズということは何かを見つけると同時に現実のものにするという意味を持っています。僕がアフリカをどう見つけたか、それは本を読んだわけでもなく、現地に行って何をしたかにかかっています。僕にとっては人間を描くことでした。アフリカの木には種がありました。ジョモケニアッタ農工大学(JKUAT)は10年前に建築学科を作りましたが、ある晩母校の大学の恩師から突然電話があり、ナイロビに行ってみないかと言われました。その時僕はナイロビがケニアの首都であることも知りませんでした。しかし喜んで行かせていただきますと答えて電話を切りました。そういうわけでJICAの長期派遣専門家という正式名でナイロビに行くことになったのです。

 それまでアフリカに対する智識は暗黒、飢餓、エイズなどネガティブなイメージしかありませんでした。そして実際にアフリカへ行って何をしたかというと、道端で描くことと大学で教えることでした。JKUATにはいろんな分野の日本人もたくさん来て教えており、僕は建築設計と建築論を教えていました。しかし、それだけで帰ってきたら今僕はここで話していないと思います。結局ODAが持っている問題は単純で、助ける、助けられるという関係を設定しています。そしてその目線で見て単に近代的な技術がアフリカのためになると思っているわけです。またアフリカ政府もそう思っていて大学で教える場合もその目線で一日も早くアフリカが先進国と同じレベルで競えることを望んでいます。

 僕がそういう求められた技術を教えるだけで帰ってきたのであれば何も起こらなかったのですが、ある時大学からの帰り道で大スコールに会って、車の中から外を見ると大勢の人たちがどろどろの道を傘もささずに歩いていたのです。自分の生活はというと、ケニア人は住めないようなアパートに住み、高級スーパーマーケットで買い物をし、運転手つきの車で通勤していました。そのとき気付いたことは、ODAや近代的な技術とは全く関係なく暮らしている人たちのもう一つのナイロビがあるのだということでした。そしてそのもう一つのナイロビにアクセスするために僕がやったことは絵を描くということでした。もしバイオリンが弾けたらバイオリン、ダンサーならばダンスなのですが、僕の場合は絵を上手に描けるという一種の武器を持っていたわけです。それでスケッチブック、絵の具と折りたたみ椅子、ペットボトルを持って街に出て人々に近づいていったのです。その様子はのちにまとめた「ムチョラジ!」という本のまえがきに書かれています。

 僕は人しか描きませんし、人を見ていたかったのです。先ず描くことの意味は好奇心です。人を見るということはなかなか出来ないものですが、ひとたび「あなたを描いていいですか?」と聞いて「いい」と言われたらいくら見ていてもいいのです。描いている時間はそんなに長くないのですが、その間に人々のあらゆることを知ることが出来ました。これで先ず好奇心が満たされ、次に絵の進行に伴って見ている人の驚きを満たすエンタテイナーの役割をしたわけです。そうすることで描かれている人の心に響きその琴線に触れてみたかったのです。そこで今までと違ったその人との関係性が生まれるわけです。

 大学で教えているエリート学生と街の人々と付き合うことで自分の中で自己分裂が起こり始めましたが、これを一つにしたかったのです。我々は先端技術を持っていくことで国益に繋ごうとしていますが、最新の音響測定器を持って行っても紙がなくなれば日本から補給しなければいけないので放置されており、製図ペンのロットリングが詰まればそのまま放置されてごろごろしている、という状態なのです。これを見てJICAはいったい何を考えているのだろうと思いました。学生たちに先端技術を見せることで逆に一般の人々の力を失わせることに繋がるのではないかと思いました。

 僕はスラムでも絵を描きましたが、電気はない、食べ物もない、という状態でもそれを意に介さない生きる力を感じました。技術協力支援と称して大学で与えられている力とスラムで感じた力とは全く違うものなのです。この力を何とかしない限りケニアは改善されないと思いました。僕は一年しかいなかったので、この結論をいわば宿題として持って帰ってきてしまいました。帰国前にタクシーの中から雲と大地を眺めて、あの学生たちはどうなるのだろうと考えた時、雲の上に登るだけではなく雲と大地を繋ぐ人間になってほしいと思いました。これが2001年に「ムチョラジ」を書いた時点での結論でした。

その後の10年間はアフリカに関しては何もできないままただ考えていましたので、何かやっていらっしゃいますかと聞かれるのが一番嫌でした。ただアフリカ関連のNGOの人たちとの交流が始まりましたので、アフリカに対してやった仕事の一つとしては、サイディアフラハさんに関してトレイニングセンターの設計施工を請け負いました。しかしアフリカに対して何かしなければいけないと思いながらもはっきりしたキーワードが見つからずこれといった事は出来ませんでした。それでこの10年間ずっと悩み続けていました。

その間にいろんな出来事がありましたが、大きな出来事は2010年3月ごろに手紙が来てムチョラジが日本女子大付属中学の入試問題に取り上げられたのです。そこで僕は久々に「ムチョラジ」を手にしましたが、問題も非常によくできていていました。そんなことがあったあと偕成社の方から手紙が来まして、キベラというナイロビのスラムを舞台にした3人の子供たちの物語に挿絵を描いてくれないかという依頼がありました。僕にとって描くということはあるものをよく観察して理解してから描くので、対象がない挿絵というのには困りました。僕にとって絵は何かを理解する手段であり、相手と交流するためのものですからと、3時間かけて断ろうとしましたが編集の方は非常にタフな方で、とにかく一度読んでみてくださいと言ってゲラ刷りを置いて帰ってしまいました。

すぐには読まなかったのですが、ある日読み始めてとても驚きました。おぎぜんたさんという人の作品で、ほんとに日本人なのかと思うほどキベラのことを深く知っている方だということがわかりました。そこでまた編集者の方とお会いして、すごい物語でイメージ喚起力を持っている作品なので挿絵はいらないのではないかと思いますが、どうしても必要なのならば書かせていただきますと言いました。もしアフリカを知らないイラストレーターが描いたら台無しになってしまうしなどと思い、描くなら僕しかないと思いました。次の日にたまたま行った病院の待合室で主人公3人の顔をスケッチブックにぱっと描いたら描けたのです。実は一度ゲラを読んだだけであとは全然読まずに描きました。これが後で内容とのずれなどトラブルの原因になりましたが、これは対象がなくても絵が描けるという新しい発見でした。頭の中にあったイメージで一気に描いたため勢いがあって迷いのない絵になりました。消しゴムなども一切使っていません。こういう事が2010年に起こりました。

そして今僕の中でアフリカの木はどうなっているかというと、2010年にいきなり大きく育ちました。2010年8月16日朝日新聞のグローブという抜き刷りにアフリカの夢という記事が出ていて、今アフリカにビジネスチャンスを求めて中国人が100万人入っているがそれに対して日本人は多く見ても8000人。何と中国人が石油開発権と引き換えにナイロビとモンバサを結ぶ基幹道路モンバサロードの整備をしていると書かれていました。それを読んで僕は建築という仕事を通じて中国の方の現時点の問題点をよく知っています。早くて安いけれど品質がよくないのです。そういうものを中国の人がナイロビに作っているとしたら僕は耐えられないと思いました。

どうしようもない憤りを感じて自分がナイロビに行ってまっとうな建築というものを見せるほかないのではないかと思い、前川事務所を辞めてナイロビで設計事務所を開こうと決心しました。在日ケニア人建築家でディックマンゴーという人に大分前に会って僕の恩師の前川邦夫という建築家がどういうものを作っているかを教えたことがあり、彼も将来はケニアで前川さんのような建築家になりたいと言っていました。先ず妻に話したところ、いつかはそういう事を言うだろうと思っていたということでOKしてくれましたので、次にディックに電話をして前川事務所に来てもらい、もうそろそろナイロビで仕事をしてもいい時期だし僕と一緒に設計事務所を開かないかと話しました。それがOSA つまりOlango & Sakata Associationというものです。その準備期間として2年間を設けてレインボープロジェクトというWeb Siteを開きました。ケニアと日本の間に彩り豊かな虹をかけたいと思ったわけです。助ける、助けられるという関係ではなく、自分の持っている力を出し合ってから何ができるかを考えればいいのです。それぞれの潜在的な力を何かの形にしたいのです。それをどう現実のものにするかを今オランゴと話し合っている段階です。

リアライザーとしての身近な例を挙げると、高橋直子さんはケニアにランニングシューズを贈っていますが、それは憐みではなく単にケニアの子供たちが喜んで走る姿を見たいだけなのです。自分たちのライバルになろうとそんなことは関係ないのです。走る喜びを与えたいだけなのです。僕もああいう事がやりたいと思います。OSAが今の目標で来年の秋ごろには設計事務所を設立したいと思っています。まだ20年くらいは働けると思いますので、そのあとはオランゴが引き継いでくれればと思っています。これが僕のアフリカの木です。