アフリカ、タンザニアでの大学生活

(2015/1)

講師紹介:井上満衣(東京学芸大学教育学部)
2013年8月から2014年8月までタンザニアに滞在、ダルエスサラーム大学、School of Education に所属
教育を専攻、アフリカンダンス、アフリカンドラムのコースなども学んだ。

東京学芸大学の井上満衣と申します、よろしくお願いします。私はダルエスサラーム大学に留学してきましたが、その1年間をどのように過ごしてきたかを振り返りながらお話ししてみようと思います。私がいたのはタンザニア連合共和国、ザンジバルとタンガニーカからなる国です。面積は日本の2.5倍で人口は4925万人、公用語は英語とスワヒリ語です。国立公園やキリマンジャロ、ビクトリア湖など観光資源に恵まれて国です。130の民族があり、首都はドドマですが、事実上の首都はダルエスサラームで経済の中心になっています。私はここのダルエスサラーム大学のSchool of Educationに所属していました。

大学は丘の上にあり涼しい所でした。戸外の大きな木の所は、WiFiツリーと呼ばれていてWiFiがつかえるので木の下のテーブルで学生達は勉強をしていました。授業は9月からですが慣れるために少し早く2013年の8月に大学に入りました。すぐには寮に入れず、2週間知り合いの家にお世話になってからタクシーで大学に行きましたが、国際科がどこかわからず目の前にいながら見つけるのに30分もかかってしまいました。

最初の食事はウガリとサマキという魚料理とムチュジでしたが、全く薄味で味が無く、ほとんど食べられませんでした。朝ごはんにチャパティとチャイでこれは美味しかったです。主食はウガリの他にワリと言ってご飯もあります。一番好きなのはポテトフライを玉子で包んだチプチマヤイかなと思っています。

初めてできた友達は、タンザニア人で私の隣の部屋に住んでいた人です。8月は休みでほとんど人がいないのですが、この人は大学のバイスプレジデントといって副大統領を務めている人で、ミーティングがあるので先に入ってきたのだと言っていました。誰もいない中で友達が出来てラッキーでした。2人でダラダラに乗って買い物に行きました。初めての買い物ではカンガで、カンガは物を包んだり、バスタオル替わりや海に行ったときに体を包んだり、なんにでも使えます。

学校が始まるまで1か月以上あったので私は外のベンチでスワヒリ語の勉強をしていました。午前中は木や石の椅子に座って勉強し、午後はカリアコという大学内にあるお店に一日中居座っていました。お店の人はほとんど英語が出来ずすべてスワヒリ語で話していましたので、少し英語の分かるベンジャミンという男性に教わって勉強していました。お店の男性はカリアコの中にマットを敷いて寝るという生活していました。寮の前にはアスカリと呼ばれる警察官がいました。私の住んでいた寮は女子寮で留学生と高学年の女性しか入れないところでしたのでいつもアスカリがいました。

9月になると留学生が続々とやってきて、ドイツの学生が多かったのですが全員で50名くらいの留学生が来ました。大学のオリエンテーションが始まったころマラリアに罹ってしまい、病院へ行ったところ注射器を貰って自分で打つのかと思いあわてましたが、自分の注射器を持って毎日病院に通うのです。またアナスタージャというタンザニア人のルームメイトもやってきました。髪の毛をサロンに行って編んでいて、2か月に一度くらいヘアスタイルが変わっていました。勉強家でしたが、人の物は自分の物というタンザニア人の精神を彼女から学びました

授業は週に2回のレクチャーと1回のセミナーでした。授業の時間が決まるまでに数回のドラフトがあり最低5回くらい変わるので大変でした。テストが2回と学期末の課題などもあり、セミナーはグループワークでディスカッション、課題プレゼンの発表で成り立っていました。特に困ったのは配布資料で、すべてスワヒリ語で説明されるので全くわかりません。しかも配ってくれるのではなく、誰かに渡すか文房具店に置かれていて買うわけです。マデッサと言われる教材を集めることが出来るかどうかが成績に関係してきます。そこで対策を考えて授業中ノートを取っている人を探して仲良くなることにしました。またクラスの代表が前で話すので、その子と仲良くなるということです。すでに授業を受けている人に資料を見せてもらい、困っていることを伝えました。結果として私自身がタンザニア人よりたくさん資料を持っている人だと思われるようになりました。

この他の授業としては、ダンスとドラムの授業を取っていました。ドラムの場合タンザニア人は先生だけであとは留学生でした。レクチャーはなく練習のみの授業だったのでとても楽しかったです。

ウガンダの学生との交流会もあって、カンパラの大学から60人くらいの学生が来て、大学に大統領、副大統領、大臣などの組織があり、その交流会がありました。私の最初の友達が副大統領だったことから、私はカメラマンを演じていました。

休みを利用してドドマのモザンビーク人の友達を訪ねました。コンドアには2006年に世界遺産に登録された壁画があって、これを見たいと思って行ったのですが、たまたま彼女の同室の女性が国会議員だったこともあり、車を出してもらい片道2時間の所にある遺跡に行くことが出来ました。

UEユニヴァーシティー・イグザムの時期になり勉強するわけですが、助かったことには欧米人はダンスの発表会がテストの代わりになるのです。先生はタンザニア人でしたが、練習は欧米人ばかりで毎日一緒に練習をしました。段取りが全くいい加減でUEが終わるまではドタバタの連続でした。

UEが終わったのでザンジバルの音楽のサルサフェスティバルに行きました。1日目から調子が悪かったのですが、なんと腸チフスに罹ってしまいました。そのあと大きなイベントとしてはマサイの村へ行きました。マサイのアスカリをしている人の家へ行きました。歩いて4時間くらいかけて行き泊めていただきました。マサイの人たちの朝は早く、友達が羊をさばいて串にさして焼いてくれました。日本人4人で行ったのですが、私以外の3人がバクテリアに侵されて救急車で運ばれる騒ぎになってしまいました。

学生結婚が多いのですが、お祝い金は前払いで婚約するのでお金払ってと言われて3万シル払いました。それを神父さんが丁寧に記録していました。婚約パーティーは親の家ではなく自分たちでやりますが、その二人は大学の敷地内でやりました。
後期になって分かったことは、授業の予定がわかりやすくボード書きをしてくれる分かりやすい先生を選ぶこと、また少人数のクラスを選ぶことが肝心ということでした。あとは仲間が優しそうな人たちということです。後期はショッピングモールでミュージックアワードなどもありました。ヤマチョマというフェスティバルは屋台が出てお肉を焼いてそこで食べて飲んでというものでした。私はほとんどタンザニア人と一緒にいましたので、この時期になってスワヒリ語が上達してきました。

雨期が終わると学校内は選挙一色になりました。クラス代表の選挙の後に大統領選挙があります。驚いたのは学生が本気で選挙に立ち向かっていたことです。本気で演説をし、聴衆も真剣でヤジも飛ばします。国の政治活動のような活動で、当選すると給料がもらえます。その代わり大学事務を学生が担っているので仕事も大変なのです。政治家を目指している人たちが立候補していて、自分のキャリアパスとしているのです。SMSワッツアップ、日本ではラインなどに動画を流してインスタグラムで写真を流していました。この期間授業はそっちのけで、クラスの代表選挙の時はクラスの後に必ずスピーチをしていました。ずっと寮を回って講演をし、ブブゼを使ってだれだれを大統領になどと叫んでいて面白かったです。任期は1年で給料をもらっていて仕事もできる人なのでねたみも多く、最高学年でもあり再選は難しいようでした。

このころ私自身に起きた事件があったのですが、それは止まっている車の横にいた時バッグをつかまれて100メートルくらい引きずられてけがをしたことです。かなりひどくて部屋から出られませんでした。

このころになると学生ビジネスが多くなり、靴、化粧品、文房具、サプリメント、キテンゲ、傘、Tシャツなどを友達同士に売っていました。アートもワッツアップに流して何でも商売にしていました。外国人留学生相手に料理教室をする人もいました。

女性だけのキッチンパーティーというのがあって、結婚式の前夜女性だけできらびやかに着飾って、プレゼントはキッチン用品に限られているのです。冷蔵庫を贈る人もいました。結婚式の当日はその日になるまで予定が知らされず、分かったのは2時間前でした。イスラム教でしたので男性は左、女性は右という風に男女の場所が決められていました。出席者は全員同じ民族衣装で新郎新婦だけがきらびやかでした。踊るのは男性だけです。二次会は新郎の自宅で開かれました。

もう一度ドドマへ行き国会議員のお宅を訪ね、そのオフィスのボスが管理している小学校を見学させてもらいました。とてもきれいで、机の並び方もグループワークが出来るようになっており発表したものが壁に貼ってありました。休日も図書館に勉強をしに来ていて、環境がいいと勉強したくなるのかもしれないと思いました。手洗いはボトルに入れた水を釣るし紐で引っ張って流します。水は当番で持ってくるということでした。授業の様子も見学しましたが、グループで話し合って発表していました。最後にザワディだと言ってキテンゲをいただきました。

最後に記念にと思ってキリマンジャロに登ってきました。日本人2人でいきましたが、安いチケットで言ったためにガイドでも登りたくないという険しいコースで高山病にかかりながら頑張りました。最初タンザニアについたころは、黒人はみんな同じ顔に見えましたが、だんだん一人一人の顔がわかるようになり人間はみんな同じなのだと気付きました。それでいてタンザニア人独特の一面もあり学ぶことが多かったと思います。病気にもなって大変なこともありましたが、とても意義のある濃い一年でした。