セネガルの人々の生活と教育事情

(2011/7)

講師紹介:山崎瑛莉
上智大学教育学部大学院2年生

 山崎瑛莉と申します、よろしくお願いいたします。今は上智大学教育学部博士課程2年生です。今までの経緯を少し申し上げますと、大学を卒業後2年間飲食店で料理を作っておりました。トライブスというアフリカ料理のお店におりまして、そこにいる間にKI-AFRIKAの永棟さんにお会いしてお世話になっていましたが、つい最近セネガルに行ってきたことから今日お話をすることになりました。あまり深くは知りませんが、KI-AFRKAさんが関わっておられる東アフリカとは違う面白さを私が勉強している教育に絡めてお話しできたらと思います。今日お話ししたいのは、2つのTの字についてと植民地について私は関心を持っていますのでその点についてもお話ししたいと思います。2つのTですが、まずはテランガという言葉でセネガルのもてなしの心を表しています。

 セネガルはアフリカ大陸の最西端に位置し岬を持った国です。植民地であったことを示すまっすぐな国境線が引かれており、人の横顔かライオンの顔にも似ています。日本から行こうとすると15万円から32万円くらいで行けます。ドバイ経由かパリ経由になり、ビザは3か月以内であれば必要ありません。治安は外務省の基準はかなり厳しいのですが真っ白で安全な地域だとされています。ただ黄熱病の予防接種は必要です。11月から5月が乾季で6月か10月が雨季です。気温は30度前後で直射日光は強いですが乾燥していて快適です。

 首都はダカールで、パリ~ダカールラリーを思い出されると思いますがダカールがゴールだったのは91年までです。ダカールは政治の中心であり観光地でもあっていろんな顔を持つ街です。元々は漁民の町で住む人たちが平和であるという意味の言葉がフランス語を経てダカールと言われるようになったそうです。移動手段はタクシーかバスで、トゥーバというペイントやシールを貼った8人乗りのカラフルな乗り合いバスがあります。タクシーもよく使いますが、空港から都心までで1500~2000セーファーフラン、100~200円くらいです。

 ゴレ島はダカール港からフェリーで10分の所にある人口500人の小さな島です。島全体が世界遺産になっていて奴隷の家というのがありますが、奴隷が収容されていてそこから売られていったというよりも、元々フランスの植民地であった頃市民が使っていた奴隷の家だったようです。その後奴隷の需要が増えるとともにここから奴隷が送り出されるようになったということです。しかし今でもガイドの方がいて、ここは女性の部屋、子供の部屋などと、そこでの辛い生活の様子を説明していました。ゴレ島は海のとても美しいところで、今の人々の生活はまた別の所にあると思いました。またダカールから300㎞北上したところにあるサンルイも中洲が世界遺産に指定されており、郊外にある2つの国立公園は渡り鳥の飛来地として有名です。塩分が強いためにピンク色に見えセネガルの死海と言われるところもあります。

 セネガルの植物の中で注目したかったのはバオバブです。タンザニアにもありますがセネガルでは「星の王子様」を書いたサンテクジュペリをすぐ思い出します。セネガルではバオバブの木がとても生活に密着していると感じました。実をジュースにする、幹を削って木の繊維を使う、葉を乾燥させて混ぜクスクスを作るときに風味付けする、またバオバブに語りかける人もいます。バオバブの高さは10-15mくらいですが幹が太くて7mから10mもあって生命力を感じました。

 次はセネガルのお料理の話になります。私はもともとアフリカ料理を作っていましたが、セネガル料理はこちらで教えてもらって食べていました。チェブゼンは炊き込みご飯のようなものですが、魚に切り目を入れ詰め物をしてそれを揚げ焼きにしてから野菜も入れて炒めその煮汁でご飯を炊いたものです。とてもスパイシーで美味しいですが、油もうま味も全部ご飯が吸っていてカロリーは高そうです。「チェブゼン食べたか?」とあいさつ代わりに言われるくらいセネガルでは代表的な料理です。主食はほとんどご飯で、煮込み料理に付けて食べるのもキャッサバなどではなくご飯でした。

 音楽はグリオという語り部の人たちが中心になっていて結婚式などでも必ず見られます。偶然行った村で伝統的な結婚式がありましたのでその様子をお話ししようと思います。お金持ちで広い敷地の中に前夜祭から100人以上の人たちが集まっていました。セネガルでは二番目に多い民族のセレール族の方の結婚式でした。前夜祭からずっと大きな鍋でお料理が作られます。燃料は牛糞でいい燃料になります。いろいろなお料理がありましたが、朝にはヒエをふやかしたものに熱湯を入れて混ぜてから蒸したものが出ました。オールブランを細かくしたような味でミルクやソースをかけていただきます。あとはバオバブのジュース、これはバオバブの実を割ると白いジュースが出てきますが、これを乾燥させたものにバニラビーンズを鞘ごと入れパイナップルの甘味料も入れてかなり甘く作ります。またハイビスカスをたっぷり使いミントで香りづけをしたジュースもありました。他にはマカロニのような小さなパスタとチキンの煮込み料理もありましたが、お母さんたちは次から次へと休みなくお料理を作り続けていました。

 セネガルの結婚式は、日本の結婚式のように新郎新婦を披露するのではなく、被り物をしていて全く顔は見せずに数百メートル離れたところまで移動し、そこから先は親族だけの儀式があるので出席者は入れません。そのあとを皆がついていきますが、この日のために新調したカラフルなドレスを着た人たちばかりです。古いものではなく糊のきいたパリパリの新品ばかりで、これが女性たちの習慣的なおしゃれのようで、しかも2~3回着替えるのでとても荷物が多いのです。この後牛追いの行事があり一頭の牛を興奮させて周りを男たちが囲み棒で叩きます。この牛は首を切られて生け贄になりますが、今では珍しい儀式だという事でした。

ごちそうを食べ、儀式も終わって、歌と踊りが始まります。歌とパーカッション、太鼓、エレキ音も入って明るい感じのセレール音楽は、だんだんテンポが速くなり少し遅くなってまた速くなるという風に波のように変化しながら延々と続きます。こうして伝統的な結婚式に出席させていただくと、料理、音楽、布文化、人々の生活などセネガルの文化を幅広く知ることが出来ます。

ダカールからバスで5-6時間の所にあるソコンという町に行きましたが、日本のことはほとんど知られていないのに子供たちは空手のまねをして見せてくれました。女の子たちはとてもおしゃれで髪の毛もきれいに編みこんでいました。ここでももてなしの心テランガを感じました。お茶タイムには私のようなものにもお茶を振舞ってくれます。小さなやかんに大量のミントの葉を入れて甘く作ったお茶です。小さなグラスに入れて2つのグラスで何度も移し替えて均一な味にします。カシューナッツは私達が食べる胚の部分だけではなくその上部にある果肉も食べます。甘酸っぱくてあんずのような味がしました。水事情はというと井戸にバケツを投げ入れて汲んでいました。またロバに運ばせる水売りも見られました。

毎週開かれるマーケットへも行きましたが、食べ物だけではなくいろんなものを売っている中で面白かったのは「ビンビン」という若い女の子が腰回りにつけるビズ飾りで真ん中に少し大きな石がついていて、勝負下着ともいわれ男の子にセックスアピールをするものだそうです。草で編んだ幅20㎝位で横に柄が付いた涼しい風の来る「うちわ」がありお土産に最適です。きれいな布もたくさん売っていましたが、6m位のものを買ってオーダーメイドで仕立ててもらいます。足踏みミシンがあって30分くらいで作ってくれます。東アフリカとはまた柄が違っていてカラフルでいい柄がたくさんありました。またいろんな柄をパッチワークしたものでシャツを作るのが流行のようでした。

ここでもう一つのT「タリベ」についてお話ししたいと思います。セネガルは94%がイスラム教徒で子供たちはダーラと呼ばれるイスラム学校に通いますが、そこで体験させられるのは「タリベ」と呼ばれる物乞いの行為です。施しを受けるということはどういう事なのかを理解するために実際に街に出てタリベ缶と呼ばれる缶詰の空き缶を持って物乞いの体験をします。彼らはストリートチルドレンとは違って家も食べ物もあり学校に通っているのです。これは一人前のイスラム教徒になるための教育の一つなのです。

 セネガルの教育は植民地時代そのままにフランスのやり方を踏襲しています。教科書はフランス語でアフリカ向けに作られたものを使っています。入学と同時にフランス語を学び、中学になると英語も学びます。制度は6・4・3・4でフランス語を学ぶために小学校は6年になっています。1960年代に植民地から独立後、教員養成と学校数の増加に努力が注がれましたが、1980年代になると経済が破たんして頭打ちになりました。その後1990年代になると「万人のための教育世界会議」が開かれ国際的な動きとともに援助金も入るようになり、就学率は2008年には90%に伸びています。しかし都市部以外は学校に通えない子供たちも大勢います。

教育制度で一番問題なのはフランス語での教育で、これがネックになっていると思われます。ここに二つの問題がありますが、一つはフランス語が出来ないと勉強ができないことに繋がってしまうことです。学校の成績をフランス語ではかられるということになるとドロップアウトの率が増えてしまいます。特に地方ではこの傾向が強く表れます。もう一つは植民地化した時にコミューン(組合)を作るということがなされましたが、それが先生たちの間で続いていて先生たちが権威を守るために改善策は聞き入れず、一方で給料を上げなければ先生が出てこないということも起きています。JICA が西アフリカで「みんなの学校プロジェクト」というものをやっています。ニジェールから発信してみんなのための学校を立ち上げることに協力していますが、ここでもフランス語による教育が問題になっています。
大体今回見てきたことはこのようなものです。